八幡山城

別名 猪の岡山城 付近住所 京都府宮津市宮村 現在 八幡神社
2010/4/29 案内板アリ 日本城郭大系


 ここ八幡山中腹にまつる猪岡八幡は古社で長和5年(1016)山城男山より勧請したと伝える。八幡山城の郭は八幡社の裏からはじまり、標高165メートルの頂上本丸まで、稜線に沿って10ヶ処ほどが並び、稜線の南側の通路がそれを結んでいる。稜線から更に分脈状の尾根がのび、そこにもいくつかの郭がみられる。水の手は本丸西南方小字宇水船のあたりであろうか。付近には馬場・的場・矢場等の小字名が残り、大字猟師もこの付近に散在し、この城が北西の大久保山城と並んで海に備えた城であったことを思わせる。
 八幡山城の築造の時代・城主は詳らかでない。「丹州三家物語」の記す如く丹後国主一色五郎の居城であったかもしれない。然し丹後国には一色氏の意向とは別に、新興信長勢力に従わない連中がいたらしいのであるが、この城はそういう部将の居城であったかもしれない。
 とまれ天正6(1578、9)の交に、丹後平定を終えた織田信長は丹後国を細川藤孝・忠興父子に与えた。父子は天正8年8月2日宮津に入った。そこが八幡山城であったというのは細川家記録類の記すところである。藤孝は改めて宮津浜手に新城を築きたいと考えて信長の許可を求めた。信長の返書は8月21日付で届いた。間もなく浜の新城が完成し、細川氏は城下整備も進めた。八幡山城は中世宮津の終焉の地であり、近世宮津の出発の地でもある。